ローズガーデン



「オレンジ色の名札紐・・・三年生の方ですね。
ああ、本来なら村上さんも三年生のはずなんで
すよね」

朝倉はちらっと渡瀬に反応したが、すぐまたその冷たい笑顔を僕に向けた。

「急に制服に着がえて出て行っちゃうから、何かあったらと思って後つけて来たけど。
やっぱり
面白くなかったな」

「・・・くだらないことをする奴は、言うこともくだらないことを言うんだな。
聡、やっとお前に言われ
た意味がわかったよ」


―つまらない人生しか生きられない奴は、つまらないことしか出来ないって、それは今わかったけど―


渡瀬でも「つまらない」と人生をなめて掛かった驕りの時期があった。

「渡瀬・・・」

渡瀬は朝倉の両手に巻かれた包帯と僕に対する言動で、おおよそ察しがついたようだった。


僕と渡瀬、対する朝倉。その間を夜風が吹き抜ける。

朝倉の前髪がフワッと浮き上がるように流れ、くっきりとした二重瞼の瞳が異様なまでの三白
眼となって僕たちを睨んだ。


「今だって皆を妬んでいるくせに!自分だけがって思っているくせに!
英雄気取りで、何が自分
だけの試練だ!嘘吐き!!」


もう優しい面立ちの影から覗く、冷たい笑顔すらない。

ありありとその表情に、憎しみが浮かんでいた。

しかし不思議なことにその感情を目の当たりにすると、あれほど朝倉に対して怯えていた気持ちがスゥーッと波が引くように消えていった。



魔物が見える


僕に叫んだ言葉に、自らが絡め取られて

朝倉から優しさの面影を奪い取るほど、鋭い茨のトゲとなって幾重にも絡み締め付けているのだろう。

朝倉の傷ついた心に巣食う

魔物が見える



「・・・妬みより羨ましいって気持ちなら正直あるよ。自分だけがって思うのは・・・そうかも知れないね。
打ち消しても打ち消しても湧き上がってくるんだ」


「聡・・・」

怯えがなくなると体の震えも自然と消えた。渡瀬は安心したのか僕の肩に回していた手を離した。

反対に朝倉の手が震えている。

「だけどね、朝倉・・・僕は英雄を気取るほど強くはないし、第一そんなことで英雄になんかなりたくないよ」

朝倉は無言のままで視線を自分の震える手に落とすと、鬱陶しそうに顔を歪めた。

「聡、言うだけ無駄だ。あいつには、何にも聞こえていない」

渡瀬はやや尋常では無い朝倉の仕草に、警戒を感じたようだった。

スルリと朝倉の手から包帯が解(ほど)け、小道に迫り出していた垣根に手が伸びた瞬間、


パキッ。


小さな音がして、目の前でカクンとバラの花が頭(こうべ)を垂れた。


「包帯がいるのは、こっちの方だね」


朝倉は解いた包帯を、手折ったバラの上に投げ掛けた。

手の震えは止まっていて、しかし指先からは血が一滴(ひとしずく)流れていた。




バラよ バラよ 野中のバラ

茎を折られ 花びらを散らされ

茨のトゲさえも怖れるに足りぬ

冷たい微笑の少年の前に

美しく気高いその姿も

頭を垂れて 膝間付くのか




「・・・この指先の痛みだけが、僕の気を紛らわせてくれるんです・・・先生」


朝倉が次に顔を上げたとき、視線は僕たちの肩越しを抜けてその後ろを見つめていた。

三白眼で睨んだ瞳とは思えないほどに、大きな黒目が揺らめいて。


先生が僕たちの後ろから歩いてくる。

眼は真直ぐ朝倉に向けて。


それなのに・・・

「・・・聡君、だめじゃないか。ゆっくり休んでいないと」

「先生・・・」

先生は後ろから僕の両肩に手を置いて、先生と訴える朝倉より僕に声を掛けた。

それから少し間をおいて、朝倉の方に歩いて行った。


「来ないで!!どうして・・・どうしてそいつが先なの! 僕が先生って言っているのに!」

「・・・どうして?順番なんてないからだよ。雅美の声だってちゃんと聞こえてる」

先生は立ち止ったものの、あきらかに様子のおかしい朝倉を前にしてもやはりいつもと変わらず普通だった。

「じゃあどうして僕は後回しなの!ねえ!僕もそいつみたいに病気したら少しは気にしてもらえるのかな?先生!」

「言ったろう、順番はないって。それと同じさ、思う気持ちに差はないんだよ」

「嘘!そんなのは詭弁(間違っていることを正しいと思わせるような議論)だ!
・・・なんなら実証
してみせましょうか」

朝倉の手元でキラリと刃が光った。

ガウンのポケットに忍ばせていた果物ナイフ。

鞘がカランと音を立てて落ちた。




「渡瀬、両出入口の施錠(せじょう)」

「えっ?・・・あっ・・はい!」

先生の背中越しに聞こえた声に、渡瀬は一瞬戸惑いを見せながらもすぐ理解したようだった。

「聡、ここを動くなよ。俺はチエーンを掛けて立ち入り禁止の札を立ててくるから」


先生の指示で、野外のバラ園が塞がれる。

今は花の美しさよりも

茨のトゲに囲まれて、先生と朝倉が対峙する。



「どう実証するんだい」

「このナイフを、手首に当てて刃を引けば・・・」

一歩。先生が一歩を踏み出した。

「引けば?」

間合いが詰まる。一歩。


「もうトゲの痛みくらいじゃだめだ!!
死んじゃうくらいに血を流したら、先生も母さんも僕のこと後
回しになんてしないでしょう!!」

朝倉の手首に刃が当たった。

「誰も君のことを後回しになんて、していないよ」

静かな声で、先生が語りかける。止まることなくまた一歩。

「してるぅぅ・・・!!」

自らの激情に駆られるようにナイフの刃を立てて叫んだ瞬間、先生が右手で刃を握り締めていた。

朝倉の目の前で、先生の手の内から血が流れた。

それは一滴というものではなく、流血だっ
た。

いつの間にか傍まで来ていた先生を、朝倉は茫然と見上げていた。

「このまま刃を引いてみるかい」

終始揺れ続けていた朝倉の大きな黒目からパタパタと大粒の涙が零れ、音もなくナイフが土の地面に落ちた。

先生はすぐナイフを拾いその傍に落ちていた鞘にしまって、遠くのバラの垣根に放り投げた。


先生の手から、血が止まることなく流れている。

朝倉は刃物で流れる血の勢いに、驚いたようだった。

「・・・先生、手・・・」

「大丈夫だよ。こっちに来てごらん」

先生は朝倉が手折ったバラの元へ歩み寄り、戸惑い口ごもる朝倉を呼び寄せた。

「包帯を垣根に投げ捨てちゃだめだろ。取っておいで」

朝倉は先生に言われるままに、包帯を垣根から取り外した。

ただ、トゲにガーゼの網の目が食
い込んでいて、その際に朝倉の両手の甲は無数の引っかき傷がついた。

先生は包帯を受け取ると、グルグルと自分の右手に巻いた。

「雅美、手を見せて。両手とも」

おずおずと朝倉が両手を先生の前に出した。

指先と手の甲は、古い引っかき傷と新しい引っかき傷でいっぱいだった。

「痛くはないかい?」

先生の言葉に朝倉は無言で首を振った。

「どうして痛くないと思う?」

朝倉の手の甲を撫でながら、さらに先生が訊く。

「・・・最初は小さな痛みだけで気が紛れていたのに、常に痛みを求めるようになって・・・。
先生、
きっと僕は麻痺してしまっているんだ・・・何も感じないんだ・・・」

朝倉は手を振り払いながら、先生に背を向けた。

「そんなことはないさ。君が痛みを感じないと思うのは、自分で意識して傷付けているからだよ。
身構えることが出来るからだ」


背を向けた朝倉の後ろから、先生はもう一度抱きしめるようにして手を取った。

朝倉の左手に先生の左手が重なり、不意にその手がバラの垣根に伸びた。


茨のトゲを握り締める。

朝倉と先生の手は重なったままに。


「あうっ!!いっ・・あ!・・・ひあぁっ!!痛ぁいぃぃ――っ!!」


泣き声とも悲鳴ともつかない朝倉の声が、野外のバラ園に木霊した。


「痛いだろう?これが身構えることの出来ない痛さだ。この痛みを君は聡君に向けたんだよ」




バラよ バラよ 野中のバラ

頭を垂れて 膝間付いたのは

冷たい微笑の少年

美しく気高いその姿の前に

所業(しょぎょう=してしまったこと)の罪を 償う

いかなる理由があろうとも




戒めを解くように、茨のトゲを握る先生の手が開いた。


「だって・・先生、僕・・・いたぃ・・悔し・・うっく・・だって・・・みんな・・母さんも・・・ふえぇぇんっ・・・」


痛みと涙と。


心の痛点にトゲの杭が打ち込まれ、魔物が消える。


朝倉は手を抱えて、泣きながらその場にしゃがみ込んだ。

だってと僕を繰り返す、小さな子供のように。

僕たちは同じだね、朝倉・・・。




「みんなが何?みんな君のことを心配しているよ。もちろんお母さんもね」

「・・・みんなが心配?母さんも・・・嘘だぁ!違う!!違う!!・・・あっ、やだ!先生!」

先生はまた激しく反応し始めた朝倉の腕を取って引き摺り上げ、右手で横抱きに抱え込んだ。

そして朝倉の頭がスッポリ隠れてしまうほどガウンの裾を捲ると、寝間着のズボンを下着ごと一気に膝下まで下ろした。

明るい外灯の下、剥き出しにされた朝倉の尻は、体格に違(たが)わず白い小さなお尻だった。


パァンッ!!パシーンッ!!


「ぎゃああぁぁんっ!!痛い!痛ぁいぃぃっっ!!」


罰せられるは白い小さなお尻。

瞬時に赤く手の形が浮き上がり、痛みを求めた朝倉に、存分
の痛みの洗礼が降り注ぐ。


バシッ!! バシンッ!! バチィーン!! ビシャンッ!!・・・


「うぁんっ!うあぁんっ・・!だって、違ぅ・・僕のことなんて!!」


先生の右腕が朝倉の腰から腹にかけて、ガッチリと食い込むように巻きついている。

朝倉は顔を真っ赤にしながら、泣き叫んだ。

両手の片方はぎゅっと握り締め、片方はブルブル
と震えながら中途半端に開いたままだった。


「雅美、君の妹に会ったよ。まだ赤ちゃんなんだね」

「いたっ・・ふえっ・く・・・いも・ぅと・・」

思いがけない先生の言葉に、それまで身を捩るように泣き叫んでいた朝倉の身動(みじろ)ぎが止まった。


「あっ・・・」

おもむろに先生の右腕が緩み、抱え込まれていた朝倉は小さな声を上げて滑り落ちるように地面に両手膝を付いた。

剥き出しのまま四つん這いの格好になった朝倉にフワリとガウンの裾を戻して、先生もその場に腰を落とした。


「この間、雅美のご両親が来られたんだよ」

「両親・・・母さん?」

「違う、ご両親だよ」

「ちが・・違うことない、先生!僕には母さんしかいないんだ!あいつは父親なんかじゃない!!」

朝倉の目が再び三白眼に光って、先生を睨んだ。

だが、朝倉の目に映っているのは父親なの
だろう。


ほんの少し間があっただろうか。

下から睨み上げる朝倉の顔に向けて先生の手がすっと伸
び、目に掛かりそうなほどの前髪をかき上げた。

「こうすると、君にそっくりだ」

そんなことを言いながら、先生はニコッと微笑んだ。

「・・・似てなんか・・・・・」

静かに朝倉の目が伏せて行く。

その表情の変化は、あきらかに父親に対したものとは違って、
歳の離れた妹への複雑な心境の表れのようだった。


朝倉の中で揺れ動く家族像。


「なりたいと言っておられたよ、雅美の父親に。今は月に二度、カウンセリングを受けていらっしゃるそうだ」

「カウンセリング・・・?そんなのしたって・・・それに今ごろになってそんなこと!」


「・・・そうだね。だけど、今ごろなんだよ」


先生の言葉が重く響く。


あぁ、ここでも・・・

―皆それぞれに 人生の数だけ試練はある―



「先生、あいつは母さんを殴ってたんだよ。母さんはその度に泣いてた」


「うん」


「あんな奴とどうして結婚なんかしたんだ。あいつが金持ちだったから?」


「うん?」


「・・・そんなあいつの赤ちゃんでも、可愛い?」


「うん」


「母さんはあいつと結婚してから僕のことはいつも後回しで、赤ちゃんが生まれると僕のことは・・・
・・・もう・・いらな・・く・なった」


何を言っても頷くばかりの先生に、朝倉は声を震わせて両腕に顔を埋めた。


「赤ん坊が二人だからね。お母さんが頼れるのは、君しかいなかったんだよ」


短い頷きばかりの後に響いた先生の声が、無性に優しく切なく聴こえたのは僕だけだろうか。





―先生、朝倉は雅美よりも子供でした。癇癪を起こすとよく手を上げました。
雅美には一度も
手を上げることはありませんでしたが、それは言い換えると全く無視しているということでした。
どうしてそんな人と結婚したのか、雅美を苦しめてまで。それは私自身が思うことでした。
思いながらも私は朝倉の傍を離れることは出来ませんでした。
雅美よりも子供の朝倉には、私
しかいませんでしたから。
・・・愛することは、理屈ではないから辛いのです。

雅美には我慢を強いてしまいました―



―先生、私は本当の意味で愛するということを知らなかったのです。
ずっと独りで、やっと妻に出会えた時は嬉しかった。
しかし一緒にいる雅美には、どう対応すれ
ばよいのかさっぱりわかりませんでした。
憎いとか鬱陶しいとか、そんな感情は全くありませ
んでした。
なのに、黙ってそこに立っている雅美を見るとイライラしました。

その感情は手を上げるという行為をともなって、全て妻に向いてしまいました。
子供が生まれて、はじめて自分の欠落していた感情に気が付きました。
それは同時に悔恨と
懺悔を呼び起こすものでした。
カウンセリングを受けています。今の私はこの娘(こ)と同じ赤ん坊なのです。
夫としても雅美の
親としても。妻には感謝しています―





涙に濡れた朝倉の顔が上がる。

揺らめく大きな黒目は前へ進む道を見始めたのか、もう三白
眼に変わることはなかった。

「・・・先生、僕はどうしたらいいの?」

「雅美も川上先生のカウンセリングを受けてごらん」

「僕も・・・」


「そう、月に一度川上先生のカウンセリングを受けること。君に謹慎は必要ないよ。
それよりも
みんなと学校生活を楽しむことのほうが必要だ」


「・・・・・・みんな僕のこと気持ち悪いって・・・言う」

「その手をみれば、心配したり不審に思ったりするのは当たり前だろう。
雅美のことを一番に教
えてくれたのも、クラスメイトのみんなだよ」

一旦立ち上がった先生はもう一度腰を屈めて、地面に手をつく朝倉の手を取った。

「まぁでも、そんなふうに言った奴は誰だい。僕が叱っておいてあげるから」

立ち上がるよう促されたと思ったようだった。

朝倉は慌ててガウンの裾あたりをゴソゴソと直す
しぐさをした。

「まだだよ。雅美もちゃんと叱っておかなきゃね。ロビーのバラが手折られていたけど」

また抱え込まれた朝倉は、やっぱりガウンの裾を大きく捲られた。

「やっ!!それは・・あのっ!・・・いやあっ!!」

怪我をしていない方の、先生の左手が大きく振り上がる。


ビシャーンッ!!


尻の真ん中へ、自分を傷付けた罰!


「ひあぁっ・・!!」


パンッ、パンッ!!


左右の尻の上方を、手折りしバラの罰!


「うわあぁぁんっ!・・せんせ・ぃ・・・先生!」


ビシーッ!!ビシッ!!


同じく尻の下方に、命を軽んじた罰が打ち込まれる。


「やあぁっ!・・・ごめ・・ごめんな・・さ・い・・・僕が・・しました」



バラの垣根が夜風に揺れて、葉が擦れの音と共に甘い匂いが風に運ばれる。

マスクひとつで、この匂いさえもわからなくなる。

健康な体とは、何と羨ましいものか。

朝倉、僕もひとつひとつ取り戻して行くんだ、これから。



「・・・聡、おいっ、大丈夫か」

両出入口の施錠を終えた渡瀬が帰って来た。

はぁはぁと息を荒げて、額からは汗が流れてい
る。

「僕は大丈夫だけど・・・渡瀬、すごい汗だよ」

「チェーン(鉄の鎖)だぞ。それも2本。しかも用具室まで取りに行って・・・あいつは?」

渡瀬は恐ろしく不機嫌な顔で言った。

「・・・先生と、あそこに」


朝倉は先生の足元にしゃがみ込んで、泣きじゃくっていた。

「雅美、自分で傷付ける痛みは身構えることが出来る分、本当は危ないんだよ。
君の言うよう
に痛みに麻痺するからね。より大きな痛みを求めようとする」

右手の包帯を締め直しながら、先生が諭すように話しかける。

朝倉の顔が上がって、先生は少年のような笑顔を見せた。


「刃を引けなかっただろう。ちゃんと君はわかってる。大丈夫だ」


朝倉の目からさらに涙が溢れた。パタパタと、零れ落ちる音がするほどに。


「ちっ、ビィビィ泣くくらいならくだらない悪戯なんかするな・・・全く」

「渡瀬、そんな言い方しなくても・・・」

「聡、お前寮に帰るって、本当はどこに帰るんだ」

嗜めるはずが反対にギロリと睨まれて、思わず言葉に詰まってしまった。

「えっ?・・えっと・・・」

どう説明したものか考えていたら、帰って来ていることに気付いた先生が、渡瀬をまた呼びつけた。


「渡瀬」

「・・・はい」

バラの垣根や地面を指差したりして、先生が何か渡瀬に指示をしていたようだった。


「聡君」

「あっ、はい」

「君はちゃんと医務室に帰るんだよ。渡瀬に言っておいたから」

「はい・・・」

先生の渡瀬への指示の中には、僕のことも入っているようだった。

渡瀬は先生の横で携帯電話をかけていた。

先生は二言三言朝倉に話しかけると、そのまま帰ってしまった。


携帯電話をかけ終わった渡瀬がしゃがみ込む朝倉の傍に立って、乱れた服装をしげしげと見ていた。

「・・・あちこちに血がついてしまっているけど、仕方ないな。ほら、服整えろ」

朝倉の寝間着の特にわき腹あたりに、べったり血がついていた。

包帯で縛っていても、かなり
出血していたようだった。

朝倉は黙ったまま下着と寝間着のズボンを上げ、ガウンに付いた土を払った。

時々目を擦りながらせっせと服を整えている朝倉からは、あの一種異様な雰囲気はもうどこにも感じられなかった。


「渡瀬!こいつか!!」


大声とともに現れたのは三浦だった。走って来たらしく、三浦も息が荒かった。

さらに渡瀬と同じくらい不機嫌だった。

朝倉は三浦の威嚇するような大声にすっかり萎縮してしまって、また泣き出した。

「泣くな!!お前のせいで、どれだけ俺たちが迷惑していると思ってんだ!!」

「三浦、そのことについてはもう充分先生から叱られたんだから、許してあげてよ」


「ああもう、どうでもいいから!三浦、とっととこいつを川上のところまで連れて行け!聡は俺だ。ほら・・・」

渡瀬はそう言うと、僕の前に回って負ぶされと背を屈めた。

確かに疲れてはいるけど歩けないほどではないし、まさか負ぶわれるなんて恥ずかしくてとてもうんとは言えなかった。

躊躇っていると、今度は横から朝倉の悲鳴が聞こえた。

「やあぁ―――っ!!」

横を見ると、三浦が朝倉を肩に担ぎ上げていた。

「うるせぇ!ちんたら歩いているヒマはねぇんだよ!」

「三浦、そんな乱暴な・・・」

言い終わらないうちに、三浦は朝倉を担いでどんどん先へ行ってしまった。


「聡!人のことはいいから、さっさとしろ!」

「ほんとに大丈夫だよ、恥ずかしいよ・・・歩けるって」

「三浦が言ってたろ、ちんたら歩いているヒマはないんだ。俺たちは忙しいんだ!!」

「でも・・・」

「聡・・・それ以上言うと、お前の尻も叩くぞ」







結局渡瀬に負ぶわれながら、来た道を医務室へ戻る。

汗の引かない渡瀬の後姿に、申し訳ない気持ちと少しの気恥ずかしさと。

そしてまだ怒って
いるのか気になって、そっと訊いてみた。

「・・・渡瀬?・・・ごめんね?」

「谷口はまだロビーのバラの入れ換えか。三浦はバラ園に戻って血だらけの地面を掃除して、施錠をまた外して。
俺は医務室から包帯やら傷薬を借りて手当てをし
て・・・医務室に行けよ、くそっ」

渡瀬が独り言のようにぶつぶつと言っている。

「渡瀬・・・?」

「ああ、ナイフもだ。危ないから必ず回収するようにね・・・そんなものを適当に投げ捨てやがって!
垣根のそこら辺て、どの辺だ!」


「渡瀬・・・」

僕の声も聴こえないほど渡瀬が怒っているのは、どうやら先生の方だった・・・。





―先生、僕がはじめて村上さんを見たのは、桜舞い散る中でのことでした。
偶然通用門の近く
を通っていて、ご両親と本条先生と今年の卒業生代表の白瀬さんも確かいらっしゃったと思います。
優しそうなご両親だなぁと、つい目が追っていました。
なかでも、ご両親のどちらかの手が村上さんの背に必ず添えられていて・・・何だかそれが酷く印象的でした。
それから暫くして学校のHPに村上さんの手紙が公開されて、それはみんなの感心を一堂に集めるものでした。
新学期になって復学された時も、ご両親とご一緒のところをお見かけしました。
やはりご両親のどちらかの手が、村上さんの背に添えられていました。
ちょうど妹が生まれた頃と重なって、その時にはもう羨ましさと嫉妬の気持ちで一杯でした。
憎いと思ったのは、いつ見ても村上さんが笑顔だったからです。
僕の手には届かないものを、村上さんは全て持っていました―





そうかな、朝倉。

それだったら君にだってきっと届くよ。


君の手の傷が癒えるころには、その手で妹を抱けるようになっていたらいいね。







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